2018年11月17日(土) ギャラリーOGU MAGにて行われた公開講座の内容を
以下 アラカワ・アフリカ実行委員の吉國元がまとめましたので、ここに掲載させていただきます。
アラカワ・アフリカ × Fenicsのトークイベントは実質上、ギャラリー OGUMAGで写真展を開催していた写真家、藤元敬二とにのみやさをりの展覧会『聴くこと』とのコラボレーションでもあった。展示されていた二人の写真作品と言葉、造形物と世界観に僕らは圧倒され、だからというわけではないが、トークイベントは急遽ギャラリー2階の和室で行う事にした。
スライドを映すスクリーンは真っ白なシーツを画鋲で壁に止めたもの。畳に胡座をかきビールを片手にアフリカに想いを馳せるのも良いだろうな、というのが私たちのプランだった。きしむ窓を開けると、おぐぎんざ商店街の賑やかな音やこどもの歓声がその和室を吹き抜ける。運良く当日は晴れ、30人ほどのお客様を迎える事が出来た。Fenics代表の椎野さんはこの日初めて藤元さん、にのみやさんと会う事となる。異なる世界にそれまで住んでいた三人だが、三者を知る僕は共通するものがある筈だと、そんな手応えを感じていた。
最初に登壇して頂いた椎野さんにはケニアに於けるルオ人族の「妻相続」の慣習について話して頂いた。夫を亡くした妻は、その夫と婚姻関係を結んだまま、夫が「兄弟」とよぶ間柄の男性に代理の夫となってもらう。ジェンダー分業や経済的理由も背景もあるこの慣習がルオ社会の生/性のあり方であり、椎野さんはその村の家族と共に生活をし、「娘」になる事で村のあり方を観察し記録してきた。代理の夫を持つ関係は「テール関係」と言われ、代理夫は「ジャテール」と呼ばれる。何ともアフリカらしい響きに僕の心はざわめいた。椎野さんの発見は、ルオ人族の女性にとっては受動的な婚姻関係が、夫を亡くし代理夫との関係となると、その女性の主体性が優先される事である。
また特に考えさせられたのは、その慣習の中で80年代以降HIVエイズが蔓延した時、観察者として、人類学者として何をすべきか、またはすべきでないかという、突きつけられた鋭い問いをつけられた事であった。近代的価値観や科学的根拠でその慣習を批判する事はあまりに容易い。また死に至る病を目前にし、単なる観察者としてそれをそばで見届ける苦しさもある。声高に感染予防を啓蒙し、手を引っ張り、彼ら/彼女達を治療所に連れていくべきなのだろうか?求められるような「正しい答え」ではなく、その時代や環境に適応した伝統への解釈と実践がその都度必要となるようだ。
一方藤元敬二さんにはケニアに於ける同性愛コミュニティーと、それを取材した彼の写真集プロジェクト『Forget-me not』について話して頂いた。写真は力強い。言葉や観念としての「アフリカ人同性愛者」ではなく、名を持った一個人が写真の中で息づき、ヴァルナブル/無防備で傷つきやすい、身体をカメラの前で弛ませ、静かな眼差しでこちらを見返している。もちろん藤元自身も同性愛者であるという理由からこの環境に溶け込みほとんどありのままの彼らの姿を撮影出来たのかもしれない。しかしセクシャリティーの側面に加え、藤元さんの懐に切り込むような人柄と、世界をどのようにな捉えるかという、ある種通低音としての彼の視点があるからこそ、これらの写真はある気がした。彼のパーソナリティーの中で、セクシャリティーの側面はほんの一部ではあるまいか。人類学者とはまた違う、アーティストとしての、「実践」の例を見せてくれたと思う。
にのみやさをりさんにはスライドショーを主に見せて頂き、『SAWORI』という作品に僕は息を飲んだ。それは彼女と世界との関係を結び直すような、セルフポートレートを中心とした写真群である。性犯罪被害にあい、以降、解離性障害とPTSDに苦しみつつ、彼女はモノクロームの写真表現に出会い、自己から風景、そして他者へと、徐々に写真を通じた自身と世界への対話を結実させた。
一方『SAWORI』に至る前に、にのみやさんは同じく性犯罪被害者である女性達と一緒に取り組んだプロジェクトを進める中で、写真表現の暴力性に徐々に気づいていく。被害者である彼女達を撮り、他者の前にさらす事は常に危険を伴い、ついにある日にのみやさんは、「あなたはもはや被害者ではない」と被写体に言われる。藤元さんとともに共通するプロジェクトの「当事者性」がにのみやさんの場合複雑にねじれている。しばらく写真を撮る事が出来なかったにの彼女だったが、『SAWORI』はそのねじれの中で、単なる被害者としてではなく、写真家としての、表現者としての、新たな決意表明のようにも映った。
にのみやさんは一人でも性犯罪被害者を減らしたいと活動をしており、現在は加害者側(性依存者)とも対話を進めている。この対話の中に写真表現は介在しない。彼女の活動は単なる、観察者としてのそれではなく、社会を少しでもより良くしたいという実際的な活動である。
4時間を超える三者との対話の中で、社会的なマイノリティー/少数者について考えざるを得なかった。藤元さん、にのみやさんが共に話していたが、光があれば影がある。また光と影の在り処は常に揺らいでいる。何かが軽くなると別の何かは重く沈む。マイノリティーの中にはさらなるマイノリティーがあり、あるマイノリティーはまた別のマイノリティーを生む。結局のところ、マイノリティー/マジョリティーに限らずとも、その中を微細に、丁寧に見ようとすると、浮かびあがるのは個々の、それぞれの顔と声ではあるまいか。さらにアフリカ、ケニアに於けるルオ族の慣習、また性的少数者たち、日本の性犯罪被害者たちに至るまで、すべては別々の文脈を有しており、同じ尺度でそれらを図る事の困難さにも気付かされる。大雑把な社会的観念で構えるよりも、それこそ耳を澄ませ、「聴くこと」から始めると、何かが視えてくるかもしれない。
2018.12.07 文責 吉國元 (アラカワ・アフリカ実行委員)
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アラカワ・アフリカ2018 番外編開催
アラカワ・アフリカ×FENICS
公開講座『アフリカの生/ 性について、文化人類学と写真表現』
会場:ギャラリー OGU MAG
日時:2018年11月17日(土)
企画概要:
2010年8月に始まった複合型アートイベント「アラカワ・アフリカ」。賑わいあふれる東京都荒川区東尾久の おぐぎんざ商店街で生まれた、遠い海の向こうとつながるアートプロジェクトです。 2018年は番外編として学問分野や産学の壁にとらわれずフィールドワーカーをつなげ、フィールドワークの知 識や技術、経験を互いに学びあい、新たな知を生み出すことを目指すNPO法人FENICSとのコラボレーション イベントを開催。公開講座を通して、写真家と文化人類学者、そして皆様とのジャンルを横断する 対話の場となりました。
【登壇者プロフィール】
■椎野若菜 http://wakana-luo.aacore.jp/
1972年生まれ。東京出身。ケニア・ウガンダの農牧村、ナイロビ、カンパラをフィールドとし、家族・親族、 ジェンダー、セクシュアリティ、「シングル」について調査研究している。著作に『結婚と死をめぐる女の民 族誌』世界思想社、2008年、編著に『シングルの人類学1 境界を生きるシングルたち』『シングルの人類学 2 シングルのつなぐ縁』人文書院、2014年、『社会問題と出会う』古今書院、2017年ほか。 NPO法人FENICSを研究仲間と2014年に設立、活動している。https://fenics.jpn.org/
参考文献:( 2 0 1 7 )『社会問題と出会う』編者白石壮一郎・椎野若菜
FENICS100万人のフィールドワーカーシリーズ第7巻 古今書院
■藤元敬二 http://www.keijifujimoto.net
1983 年生まれ。広島県出身。これまでに海外での数々のドキュメンタリーフォトプロジェクトを制作・発表してきた。2017 年には ゲイとして育った作家自らの人生を東アフリカの同性愛者たちと掛け合わせた半自叙伝 的写真集『Forget-me-not』を出版。現在は東京に暮らしながら新たなプロジェクトの制作を行っている。
■にのみやさをり https://saorininomiya.com
1970 年生まれ。横浜出身。27 歳の秋より独学で写真を始める。性犯罪被害者とのコラボレーション「あの場 所から」や「彼女の肖像」、二十代の若者とのコラボレーション「二十代の群像」、舞踏家とのコラボレーショ ン「風の匂い」や「白鳥の帰る日」など制作・発表している。